催眠による健康法 本文へジャンプ
熟練催眠療法士による催眠健康法の講座
●催眠の歴史
 古代においては催眠とは認識されずとも、人類がいたところには催眠があったと言われるほど、とても長い歴史を持っています。サンスクリット語で書かれた書物に催眠トランスを使用することでヒーリングをしていたという、「眠りの寺院(Sleeping temple)」に関する事実が確認されています。エジプトのパピルス紙にも「眠りの寺院」の存在が記載されてあります。
 -Franz Anton mesmer-








18世紀末のオーストリア・ウィーンで開業医をしていたアントン・メスメル(Franz Anton mesmer:1734〜1815)は“動物磁気”と名付け、手のひらをかざすことで患者の病気を治すことができると主張しました。近代催眠の起源と呼ばれる存在です。
我々が現在認識している催眠へとつながる流れは、「動物磁気」という物理的実体から、「暗示」という心理的現象へと、軸 足を移していきました。
 
 催眠 hypnotism の名付け親であるエジンバラ大学から学位を得たマンチェスターの医師ブレイド(James Braid:1795〜1860)が磁気を用いなくても、一点を見つ め続けるなどして目の筋肉を疲れさせることで同じ状態を生み出すことができることを示しました。
 
 1880年代は公然と催眠術を用いることは、医者として自殺行為でした。地位のある医者 が、隠れ家をつくって極秘に催眠療法を行ったりしてました。
 -Liebeault, Ambrose August -
フランスのナンシーの町近くで開業していた内科医リエボー(Liebeault, Ambrose August :1823-1904)は、公然と催眠術を用いていた数少ない一人でした。
1882年、田舎町の開業医であったリエボーが催眠史上に名を残すことになる事件が起こりました。
 チフスの研究などで有名な内科医学者であったベルネー ム(Bernheim, Hippolyte-Marie:1840-1919) が、奇跡的治療を行う田舎医者を来訪し、 その術に改宗したのです。それというのも、長年座骨神経痛で苦しんでいたベルネームの患者が、磁気術を施す老人医師・リエボーによって完治したと聞いたからです。 これはベルネームにとって青天の霹靂でした。自分では治すことができなかった患者が、当時極めていかがわしいと蔑まれていた方法でいとも簡単に治ってしまったというのです。しかし、直接リエボーに会ってその治療場面 を自分の目で確かめたベルネームは、リエボーの治療法の価値を認め、公然とその賛美者となり、弟子となり、友人となりました。リエボーは一躍、医学界の寵児となり、 これを機にふたりは生涯のパートナーとして、手を携えて直接暗示による症状除去を基本とした催眠治療を精力的に行なっていったのです。

 ヨーロッパ中にその名を轟かせた彼らの治療法を学ぼうと、各国から多くの医者がリエボーとベルネームのもとにに参集し、催眠研究に加わっていきました。このリエボーとベルネームらを中心としたゆるやかなつながりで結ばれた研究グループは、ナンシー学派と呼ばれるようになりました。
 
 サルペトリエール学派は、別名パリ派とも呼ばれ、パリのサルペ トリエール病院を中心にした一団でした。その筆頭で、学派を強い権威とカリスマで学派を支配したのが、シャルコー(ジャン=マルタンJan- Martin Charcot 1825-1893)です。
パリ大学病理解剖学の教授を兼ね、各地の王侯貴族の侍医を勤めるヨーロッパ最大の 医学的権威となりました。現在も残る医学的業績も多く、メスメル以来の100余年、ひたすら磁気術(催眠術)を否定し続けてきたフラ ンス医学界、そして科学界はついにこれを認めるに至ったのです。
 
 シャルコーの忠実な弟子だった、(のちに知能テストを開発する)ビネ(Binet, Alfred:1857-1911)とフェレは、シャルコー の理論を全面的に支持し、ベルネームの『暗示とその治療への適用』(1886)に対して、遅れること2年、1888年に『動物催眠』を世に出し、ベルネー ムらの暗示説に反駁を試みました。しかし1889年にパリで開かれた 国際会議でナンシー学派の正しいことが証明され、サルペトリエール学派とナンシー学派の論争に決着がつきました。
 
 -Coue, Emile-
晩年、リエ ボーはナンシーの町で開業していた若き薬剤師、クーエ(Coue, Emile:1857〜1926)に出会い、催眠の技術を教えました。
 クーエは、自分の店に通っていた薬だけでは効果のなかった客に、暗示を与えることで治療効果があることを偶然発見したのです。その後、工夫を加え、新ナンシー 派を称して、師のように自宅にクリニックを開業した。

 クーエはやがて催眠トランスを捨て、もっぱら暗示だけで治療を行い、これを自己暗示と名付けました。催眠暗示を含めたあらゆる暗示は、本質的には被術者本人 が行う自己暗示に過ぎないとクーエは考えていたのです。催眠の暗示説はここに極まったのです。
   --Coue, Emile--  クーエは20年の経験から、暗示について、以下のようなエッセンスを得ました。想像力とは催眠時に利用するイメージのことだと思われますが我々にとってとても有益だと思えるので、ここに記しておきます。
1.意志の力と想像力が葛藤すると、想像力は意志の力の二乗の割合で正比例する(つまり想像力に逆らう努力は、逆効果となる。努力がしばしば失敗する理由であ る)。
2.意志の力と想像力が合意すると、1+1=2以上の力を発揮する。
3.想像力(暗示によって)に指示をあたえることは可能である。

=感情表出による「煙突掃除」:カタルシス療法=

 -アンナ・OことBertha Pappenheim:1859〜1936)-

のちに「アンナ・O」という仮名で知られるようになる裕福なユダヤ人の娘が21歳の時に最愛 の父が死んだことで発症し、1880年から2年間、神経性の咳や麻痺、言葉が話せなくなったり目が見えにくかったりといった「ヒステリー症状」に苦しみ、 ウィーンの医師ブロイアー(Josef Breuer:1842-1925)の診察を受けていました。当時の催眠治療家がそうしたように、ブ ロイアーは彼女に対して症状除去の催眠暗示(症状は存在しないと暗示することにより、症状を抑えるもの)によって治療を行なっていたが、結果ははかばかしくありませんでした。

 -Josef Breuer- 
アンナは、長い間ひどくのどが渇いているのに水が飲めなくなりました。(その間、彼女は果物などから水分を摂取した)。あるとき彼女は催眠をかけられると、そ の理由を語りはじめました。彼女の嫌っていたイギリス人の侍女が、飼っていた犬にコップから水を飲ませているシーンを目撃して、すごく嫌な感じを持ったという のです(しかし侍女には何も言わなかったらしい)。ところがアンナは、このことをうちあけた後で、急に水が飲みたいと希望し、催眠からさめました。そしてグラス の水を飲み干し、ブロイアーにおかわりを要求しました。トラウマとなった経験をただ想起すること(そしてそれを話すこと)が、症状を取り除くことにつながるとブロイアーは考えたのです。 
ブロイアーは、アンナの持つ多くの症状をトラウマ経験に結び付けるべく、催眠中に語らせる この方法を何回も繰り返していきました。アンナは過去の出来事を思い出すたびに激しい感情表出をしました。そして催眠中に語られたことからそれぞれの症状の原因が 解明され、それとともに次々と症状も消えていきました。アンナはこの治療を「お話療法」とか「心の煙突掃除」と呼びました。

-Freud, Sigmund:1856-1939-
シャルコー、そしてリエボー&ベルネームに、それぞれ学んだ後、ウィーンに戻ってきたフロイト(Freud, Sigmund:1856-1939)は、 ブロイアーと協力し、アンナの治療を含むヒステリー研究にあたりました。彼らはトラウマの適切な除反応によって得られる効果を「カタルシス」と呼びました。この語 は、元々「浄化」「解除」を意味するギリシャ語です。 ブロイアーとフロイトは、『ヒステリー研究』(1895)を著わし、カタルシス法とその理論を提出しました。それによれば放出の道を見い出すことができな かった情動は「閉じ込められた」ままとなり、病的影響を及ぼします。催眠は、もはや症状消去を直接に暗示するためのものではなく、「抑圧された」体験を意識に 再登場させるための想起の手段として用いられました。この想起され、劇的な強さで再体験された記憶は、トラウマ体験と結びつき、すぐさま抑えられていた情動 を、患者が放出し表現することを可能にします。フロイトはのちにカタルシス理論をこう要約します。「ヒステリー症状は、ある心的過程のエネルギーが意識的操作 にまで到達できず、身体的神経支配へ移動する(転換する)ときに生まれると考えられる。治癒は、横道にそれた情動が解放され、正常な道をとおって放出され ること(=除反応)によって起こる」。
 しかし催眠治療のこの転換は、まもなくフロイトに催眠を捨てさせることになります。フロイトは、患者の額に手を当てるといった簡単な暗示で、症状の原因と なった記憶を想起できると確信するようになりましたが最後には、まったく暗示を用いずに、患者の自由連想だけに頼るになります。
 のちに、我々も知るように、フロイトと彼が創始した精神分析の影響は大きく広がっていきました。彼が催眠をまた捨てたことは精神医学界に大きな影響を及ぼす ことになります。フロイドの娘のアンナ・フロイドは、催眠法が父フロイドの意図に反して精神治療に乱用されるのを恐れ、精神分析療法に催眠法を使用せぬよう提唱しました。 彼女は、催眠は自我の同意なしに他人の心の中に土足で踏み込むので危険です。といっています。こうしたこともあり、精神治療における催眠法の利用は衰退のー 途を辿ることになりました。

 この催眠にとって皮肉な顛末には、いくつかのエピソードがあります。
まず、アンナ・Oこと、ベルタ・パッペンハイム(Bertha Pappenheim:1859〜1936)は、ブロイ アー&フロイトの「画期的な」カタルシス療法では完治せず、彼らから離れた後、ボーデン湖畔クロイツリンゲンにあったルートヴィッヒ・ビンスヴァンガーの 私立療養所〈ベルビュー〉に入り(ここは全ヨーロッパ的に有名な精神病院であり、その患者にはダンサーのニジンスキーや画家のキルヒナー、美術史家アビ・ ヴァールブルクなどがアンナとほぼ同時代に入院していた)、そこを出たときは30歳でしました。その後、フランクフルトで女性最初のソシャールワーカーになり 孤児院を設立するなど社会問題の解決に奔走し、また最初期のフェミニストとしてナチの強制収容所からユダヤ人を救出する運動などを行い、ユダヤ女性連盟と いうところの創始者ともなりましました。
 一方、ブロイアーに紹介された時から彼女に強い興味を覚えたフロイトは、口さがない研究者によれば、アンナにかなり陽性転移していたらしく、あの「ヒス テリー研究」もフロイトが「アンナ」に向けてつづったラブ・ストーリーのようなもの、という話まであります。彼は娘にも「アン ナ」という名を付けましました。このアンナ・フロイトは、後に精神分析家になり、また催眠の批判者ともなりましました。 アンナ・Oこと、ベルタ・パッペンハイムもまた、後年,頻繁に精神分析の批判を行い,フロイトが下した分析に対しても否定的でしたということです。

=行動心理学者たち=
 -Pavlov, Ivan Petrovich-
 ほとんどの神経学者(ほとんどの精神疾患が彼らの領分でした)は、フロイトの理論と方法に影響を受け、催眠を使うのを やめてしまいましました。
そうした中、条件反射で有名なパブロフ(Pavlov, Ivan Petrovich:1849-1936)は、フロイト以後にも催眠を使い続けたわずかな人々のうち の一人でした(彼は催眠の部分催眠説を立てている)。このことは、行動主義心理学が催眠の歴史に果たした役割を考えると興味深い。(他には、フランスのピ エール・ジャネ(彼は、シャルコーの高弟であり、ブロイラーたちとほとんど同時期、催眠によるカタルシスを発見していた)、イギリスのブラムウェルやモ ル、アメリカのマクドガルなどがいる)。

 心理学は19世紀末に生まれたばかりでした。当然ながら、それは最初「意識の学問」としてスタートしました。そうして催眠は、意識とは何か別の作用を示唆して いたのです。ヴント流の内観報告は、トランス状態にいるものには、不可能でないにしろ、いささか場違いというものでした。心理学が催眠と出会うのは、心理学が意識を捨てた後、すなわち行動主義心理学の台頭を待たねばならなかったのです。

 行動主義は、20世紀前半の「科学的」心理学において大きな影響力を持ちました。その創設者、ワトソン(John Broadus Watoson:1878-1958)は、大胆にも内観なき心理学を宣言しました。ワトソンは(先駆者パブロフのように)、彼が動物や幼児の行動を研 究しているとき、意識に関する主張はしなかったし、その必要もなかったのです。このことが心理学を「実験科学」にすることを可能にしました。

-John Broadus Watoson-
 ワトソンは心理学的データは他のいかなる科学と同様に公共の検分に開かれるべきであると主張しました。行動は公共であり; 意識は私的であります。科学は公共の事実を扱うべきであります。この主張は受け入れられ、新しい行動主義が、特に1920年代に急速に流行しました。一時は、(アメリ カではしばしばあることだが)若い心理学者のほとんどが自身を「行動主義者」と呼びました。 外部から観測できる範囲での研究は、催眠という現象の実験研究とその公共化に寄与したことは確かで
-Hull, Clark Leonard-
す。たとえば新行動主義の旗手であったクラー ク・ハル(Hull, Clark Leonard:1884-1952)は、 これまで催眠に関わった多くの臨床家と異なり、実験科学者でした。ハルは催眠研究のルネサンス運動を提唱し、初めて正確な実験方法による催眠現象の検証を 行いました。エール大学でその弟子20名の協力を得て実験チームを作り、心理学的方法を駆使して多くの外部条件をコントロールした催眠実験を行い、その成果を 有名な『催眠と被暗示性』(1933)にまとめました。
-Eysenck, Hans Jurgen-
 行動主義心理学の知見を心理療法に適用した諸手法を『行動療法』(1959)にまとめました、イギリスの心理学者ハンス・J・アイゼンク (Eysenck, Hans Jurgen:1916-97)もまた、被暗示性についての広範な因子分析研究を行い、たとえば被暗示性と知能と の研究(暗示にかかるのは頭が悪いから、という俗説を排した)をはじめ、多くの実証研究をあげた有名な催眠研究家でます。実際、行動療法は、脱感作法やメ ンタルリハーサルなどの形で催眠の手法を取り入れました。
= 「魔術師」エリクソン =
-Milton Hyland Erickson- 
 ミルトン・エリクソン(Milton Hyland Erickson:1901-1980)は、ハル が、エール大学に移る前に教えていたウィスコンシン大学の学生でした。エリクソンは、ハルの催眠実習を見て、催眠を学びはじめたという。そのせいもあっ て、エリクソンはハルの「弟子」だと紹介されるときがあります。逆にハルの『催眠と被暗示性』が、「あのエリクソンの師匠の本」と宣伝されているのを見たことがあります。本当のところ、エリクソンは、催眠も心理療法も独学でしました。名著の名も高い『催眠と被暗示性』も、後にウェルズにいわせれば「未熟な実験者による 結果の記録」と酷評されています。ハルを含めて彼ら実験チームの催眠の腕はさほどでもなく、被験者を初歩的な浅い催眠にしか入れられなかった。その結果を もって、催眠全体を論じているのだから、シャルコーのごときそしりを受ける隙がハルにもあります。
 
 さて、エリクソンの功績は、催眠にかぎっても、大きく分けて次の3つがあります。

 ひとつは、初期の研究者としての業績です。エリクソンは膨大な数の催眠実験を行い、実証的科学的な知見を蓄積しました。彼は催眠についての研究を実証科学 の域に高めたひとりであり、催眠にまつわる数々の神話や迷信を払拭し、またクーパーと共に最後に発見された催眠現象である時間歪曲についても古典的名著を残しています。

 ふたつめの功績は、臨床家としてそれです。エリクソンは様々な催眠手法を新たに開発し、その適応者の範囲を大幅に広げました。大雑把に言えば、催眠はすべ ての人に必要なだけ十分にかかるわけではなく、そのために催眠療法の適応は限られていたが、エリクソンは実質的にほとんどすべての人に催眠をかけることが できるようにしました。エリクソンは、催眠嫌いの人間にすら、トマトの話をするだけで、あるいは催眠への抵抗を逆に利用して、催眠に入れることができました。これ により、ショービジネスの種から、また「特異/異常な心理状態」という心理学者の研究材料から、再び効果的な治療手段として催眠を取り戻したといえます。

 三つめの功績は、心理療法における催眠の利用について抜本的に改革したことです。単なる暗示を深く刻み込む手段でも、また心の奥底に隠されたトラウマと 取り出す手段でもなく、エリクソンはクライアントが持つリソースを使い、クライアント自らが変化していけるきっかけ/援助として催眠を使いました。そして卓越 した催眠の技も、エリクソンが駆使する様々なアプローチのひとつに過ぎませんでした。(もっとも彼は多くのアプローチを同時に使ったのであるが)。エリクソンは 治療のプロセスをこう考えていました。たとえわずかな変化でも、雪だるま的に拡大していく(また、そのように治療者の働きかけは行われなければならない)。症状を維持・強化する悪循環のシステムを逆手に取り、改善を拡大していくこのアプローチは、その後新しい心理療法に取り入れられていきました。

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